ゆくミッチー「ふたり」

ずっと見ていたのです。
コスプレ衣装を目に焼き付けようと思っていたので、
頭の中でスケッチをしていたのです。
だから水を飲む後頭部を見ていたとき、
もう
次のスイッチが入っているのがわかりました。
「忘れてしまいたい」という可愛いテンポの曲の後とは思えない空気が漂っていた。
くるりとこちらへ向き直り、スッと立った、その姿。
頭の中でスケッチを続けていたので、目に焼き付いています。
立ち方はスターティングポジションに入っているかのようでした。
踵をつけるようにして爪先を開く。
左足が半歩先に、右足を少し後ろに引いているように見える。
立ち方がナチュラルじゃない。これは決めている立ち方だ。
例えばフィギュアスケーターが、音が鳴る前からポーズを取るように、
「ふたり」をピタリと決めたところからスタートさせる姿をハッキリと見ました。
それを見た瞬間、「これは総合芸術だ」と確信しました。
普通のミュージシャンなら、もう少しナチュラルに歌に入るかもしれない。
もちろん歌に心を込めることとは別の話です。
そして「ふたり」に型があるということではありません。
心を決めたとき、この人の動きはそれを体現するのだ、という話です。

常々、どうやってあのライブ空間全体をコントロールしているのだろうと思っていました。
歌で、音楽で、ダンスで、トークで。
もちろんそれらも大きな要素でしょう。それでも、私はこの日、1つの答えを見ました。
心を決めたとき、動作に現れる。
心がすべてをコントロールしている。
本当に、本当に小さな動きでした。いや、動きですらない。立ち方でした。
及川光博のステージのすべては、1点への集中から始まっている。
これを無理やり言葉にするなら、総合芸術という言葉しか、いまは思いつきません。
普通の歌のステージじゃないんですよ!
普通の歌のステージなら、もっとナチュラルに入るよたぶん。

そこから歌われた「ふたり」は、身動きとれないほど素晴らしかった。
スケッチなんかとうに忘れていました。
「旅だし。」の「ふたり」の解釈も、とても素晴らしいものでした。「若さのカタルシス」からの流れといい、ポツリとつぶやくように歌った「ごめんね」といい。
しかし、この夜の「ふたり」は、また別のアプローチとして心に届きました。
嵐のような激情を秘めた「ごめんね」、すごかった。
しかし本当にすごいのはその次の瞬間です。
「ありがとう」と、上手にいた私の方へ顔を向けて体を二つに折って振り絞るように歌っていましたが、次のフレーズに入った瞬間、ぎゅっと閉じられていた目がパッと開いて、一瞬にして正面へ向き直り、少し高い位置へ視線を飛ばしていました。
エメラルドのようなライティングの中、あの開かれた目と瞬時に変わる表情、移動する視線。この表現。
それらが指し示すのはただ1つ、ものすごいものを体感しているのだということ。
ふるえました。
本当に、本当にこれを2015の最後に見られて良かった。最前列で良かった。

2件のコメント

  1. 記憶して文字に文章に表現されている事が凄い。
    カウンドダウンのあの夜の記憶が蘇ってきました。
    みっちーが楽しければ楽しいほど、私も楽しくて仕方がなくなります。
    何故、こんなにキラキラしてるのか?
    決して、衣装のせいではなく、心がキラキラと眩しくて仕方がないのです。
    心の広さ、器の大きさに泣けてきます。

  2. charさま
    みっちーを見てひたすら「楽しいなあ」とか「嬉しいなあ」とか、
    キラキラした気持ちで満たされて
    ハッピーです とてもハッピーです
    涙が出ちゃうほど!
    であればそれで良いのではないでしょうか。
    それこそが彼の本懐だと思います。

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